変人達の考え事

変人(複数)が各々考えたことを書いています。

続・優れたリーダーは何もしない。

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 前回の記事でも述べたが、優れたリーダーは一見すると何もしないように見えるのだ。しかし、単に何もしないというのはただの邪魔者である。では単に何もしないリーダーと優れたリーダーの違いは何なのか。私はそのカギはKYではないかと考える。そこで、優れたリーダーとKYの関係について述べる。

 《記事前編はこちら》

4.リーダーはKYであるべきか。

 リーダーはKY、即ち「空気を読めない」人間であるべきだろうか。私は部分的に、ある程度KYであった方が良い、さらに言えばそうある必要があるように考える。

 以前この記事で述べたが、KYには二つの要素がある。一つは観察力不足に起因する他者が求めていない、言い換えれば余計なもの。そしてもう一つは想像力不足に起因する行動主体の意図が伝わらずに、他者が理解できないものだ。

 4.1 相手の望むことだけをするな。

 観察力不足に起因する他者が求めていない、言い換えれば余計なものは、リーダーならば持っていなければならないものである。それは勿論観察力を備えた上で、構成員は望んでいない面倒なものかもしれないが、成果を最大化するために加える必要な助言や方向転換である。

 おそらくこの要素を持っていないリーダーを考えるとその問題は明らかとなる。そのようなリーダーは構成員の提案を拒まないし、途中で方向を変えるようなこともない。言い換えれば上に立つイエスマンである。勿論構成員は大したストレスなく、班の中で作業を完結させることができるかもしれない。ただそのような場合、完成物はこの上なく素晴らしいと言い切れることはまずない。なぜならそれは、実際に作業を行った人間だけが考えたものを採用し、途中で方向性を見直すこともなく、他の班ともあまり交わらずにバラバラにやったものであるからだ。さほど悪くないかもしれないが、リーダーなしには自己満足感だけが満たされる、全体としてまとまりのない、そこそこの物以上にはなり得ない。リーダーの主導のみによって起こり得る、班の枠を超えた視点からのアイデアの淘汰・見直しが必要なのである。

 そのため、リーダーは単なるイエスマンであってはいけない。たとえ作業が順調でも、観察を絶えず続け、多少遠回りでも最終的に成果が最大化する方法を模索し続けなければならないのだ。

4.2 行動の意図は確かに伝えよ。

 想像力不足に起因する行動主体の意図が伝わらずに、他者が理解できないものはリーダーが決して持ってはいけない要素である。これを持っていると例えば、リーダーは現状を整理して全体で情報を共有したつもりが、その他多くの構成員にはそれが何の話か分からなかったであるとか、会議をリーダーが始めたはいいが構成員に何の会議かが伝わっていないであるとか、アイデアを出すようリーダーは求めるが、構成員には何のアイデアを出さねばならないか分からないであるとか、リーダーは褒めているつもりが馬鹿にいているのではないかと思われるといったことが起こり得る。これは時間と労力の無題以外の何物でもない。そんな作業の空転を繰り返していては良い成果など出るはずがない。加えて、意図が伝わらないような、しかも悪い方向にしか繋がらない言動は、当然ながら他者を不快にする。そんなことをくり返す人は嫌われる。リーダーが意味の分からないことをするからなどという理由で嫌われては、作業の割り振りも上手くいかないし、成果の最大化からは逆の方向に転がってしまう。こういう訳で、リーダーは行動の意図が伝わらないような言動をとってはいけないのである。

 では、言動の意図を確実に構成員に伝えるにはどのようにすればよいのか。まずはすること話すことを、一度頭の中で整理し、落ち着いてから言動を始めることだ。思いつきというのは、その時の自分が思っている以上に辻褄があっていないことが往々にしてある。とにかく、焦ってはいけない。次に、周りの表情・反応をよく観察するのである。今説明を省いたことを相手はもう既に分かっているはずだと誤解してはいけない。一回や二回行動の意図が伝わらないことはある。それをしっかりと観察し、同様のことを繰り返さないようにするのである。さらに反応から創造力を働かせ、どれだけ行動の意図は説明をしっかりと言葉で言わねばならないかを見極めるのだ。

4.3 リーダーのもつべきKY的側面とは。

 さて、KYの2要素から、とリーダーのもつべきKYを述べたが、まとめると、相手の反応を見ながら、意図の伝わらないことをしてはいけない。しかし、いつも誰にでも都合のよいイエスマンではいけず、常に観察をし続けて、作業を途中でひっくり返す勇気を持つべき、ということだ。

 果たしてこれはKYなのだろうか。ここまでくるともはや全くの別物である。確かに優れたリーダーはKYかのような要素も必要だが、それは根本的な部分でKYの性質と異なり、極論関係ないとも言える。

 詰まるところ私が何を言いたかったかというと、確かに意図的にKYであることは素晴らしいことではあるが、我々は(特にリーダーは)このことを盾に空気を読まなくていい訳ではないのである。リーダーだからなにをしても許される、そのような発想は捨てろ、ということだ。

 

次回はこれまでの内容をまとめる(予定)である。