空気を読まない。空気を読めない。
”KY”。即ち「空気を読めない」という略語が定着して久しい。すでに死語となったという意見もあろうが、多くの人間が、おそらく何の抵抗もなく受け入れられる言い回しであることから、一般的概念となっていると言えるだろう。
ただ、私はこのKYがあたかも常に悪であるという考え方が普及していることに疑問を持っている。決してKYであることは悪であるとは限らない。そのように私は考える。
今日はそのKYについて、私なりの考えを述べる。
1.「空気を読めない」とは。
そもそも「空気を読めない」とは何か。私は以下の二つの原因によって生じる、他者が「場の空気を読めていない」と感じる言動であると考える。
- 自分がすでに取った言動に対する他者の反応から、それに付随した感情を読み取ることができない。
- 自分がこれから取る言動によって、他者がどのように感じるかを想像することができない。
これらはそれぞれ言動の前後に生じる行動主体の思考に関するものである。それぞれについて、詳細を以下に記す。
1.1 言動を止められないKY。
自分がすでに取った言動に対する他者の反応から、それに付随した感情を読み取ることができないというのは、ある種観察力の欠落である。例を挙げると、行動主体が話している内容に対して、他者が興味を失っているにも関わらず、話題を変えることなく話し続けてしまうといったものである。
このような観察力の欠落による言動は、言い換えれば他者が求めていない言動である。当然このような言動は他者に不快な印象を与えてしまう。
1.2 言動を始めてしまうKY。
自分がこれから取る言動によって、他者がどのように感じるかを想像することができないというのは、ある種創造力の欠落である。例を挙げると、行動主体は洒落の効いたことを言うことで、周りの空気を和ませる意図で発言をするが、他者にはそれが意味の分からぬつまらない発言ととられるといったものである。
このことは、一見すると「場の空気」には無関係に感じられるかもしれない。しかしながら、行動主体の意図が、予想とは大きく離れた結果となることは、多くの場合、他者にとっては理解することのできない言動となる。そのような言動は、会話などの進行を妨げ、あるいは内容を大きく逸らし、他者にとって不快な印象を与えることとなる。
1.3 両者の要素を持つKY。
おそらく実際にKYであるとされる言動は、前に述べた二つの要素が組み合わさって初めてKYであるとされることが殆どであろう。
具体的に、真剣に会話をしている最中に、その会話を和ませようという意図で、行動主体が発した言葉に対して、他者がKYだと感じた場合について考える。他者が真剣な会話を続けていたいと意図していたという点で、この言葉はそれを妨害する邪魔なものであり、他者は求めていなかった言動である。これは前者の観察力の不足に起因するものである。一方で、他者がその言葉によって和まなかったという点では、この言葉は突如現れた文脈を無視したものであり、他者には理解できない言動である。
すなわちこの場合、行動主体は他者がその言動を望んでいないと観察によって見抜けなかった点、他者の反応が行動主体の想像からかけ離れていた点の2点がKYであったといえる。
もし仮に、観察力が十分にあれば場を和ませようという発言そのものが生じず、KYとはなり得ない。一方で、想像力が十分にあれば、場を和ませるのが不可能であると察知して発言をとりやめる、あるいは実際に場を和ませて他者に言動が理解される。そうすればどちらもKYとはならない。
以上の点で、私は観察力・創造力の欠落によってKYだとされる言動は生じると考える。
2.KYは絶対悪であるか。
1章の内容を踏まえると、KYとは他者が求めていない言動、あるいは他者が理解できない言動である。それは他者を不快にする言動であり、絶対悪なのだから世界から消滅すべき思われる。むしろそのように広く考えられている。
しかし、冒頭でも述べた通り、私はKYは常に悪ではない、むしろときには事態を好転させる可能性を秘めた、あった方が良いものであると考える。それは新たな知見が得られる場合があるからである。勿論そこには条件が存在する。このことについて以下に述べる。
2.1 KYが導く新たな知見。
KYは新たな知見を導き得る。このことはKYが存在しない。即ち場の空気に適した言動のみで話が進む場合と比べると明らかである。
何か物事が進んでいる場合、関わっている全員が、何の文句も言わずに作業を進めれば、余計なことは考えずにすむし、途中で既に進んだ作業が無駄に帰すこともない。即ちとても楽である。
ところが作業の途中で、ある一人が別のアイデアを出したとする。途中でアイデアを出すということは、考えることを増やし、加えて既に終わった作業が無駄になる可能性をはらんでいる。多くの組織においては、特に参与者の主体性がさほど高くない場合、それは行動主体以外の人間にとって、望まれない言動であり、彼らを不快にする。それはKY以外の何物でもない。そんなことを言いだす奴ははっきりといってウザいのだ。
確かにそんな奴は周りからするとウザいだろう。特に言い出した場面においては絶対悪としか感じないだろう。しかし、後で振り返ってみれば、そのアイデアによって作業時間が短くなったり、完成品が向上する可能性はある。
このように、他者を不快にする、所謂KYと言われる行為が、他者を利する場合もあるのだ。
2.2 KYが益となり得る条件。
とはいえ、いつもKYが益となるわけでは当然ない。むしろ余計な作業を増やしたり、脱線を導いたりと、やはり悪以外のなにものでもない場合の方が多い。では益となり得る条件は何か。それは意図的にKYとなることであろう。
創造力・観察力の欠落したKYに事態を好転させるアイデアを出すことができるだろうか。勿論偶然出せる場合もあるかもいれないだろう。しかし、そのアイデアがどのような結果を導くか想像はできない。現在どのような問題点を抱えているのかを観察して見極めることもできない。そんな人間が出すアイデアは、殆どが害である。偶然があるかもしれないが、総じて負となることしかない。それは益とはなることは決してない。
つまり、想像力と観察力を兼ね備えた人間が、他者が多少不愉快になることを理解したうえでとる言動。言い換えれば空気を読めるが、意図的に読まないでとった言動が益となり得るのである。
3.意図的なKYを受け入れよう。
以上で述べたように、意図的なKYはあった方がよい。ただ、そのためには創造力と観察力、加えて他者にウザがられる勇気が必要である。
ただ、私が最も訴えたいのは、その意図的なKYを皆が受け入れられるようになってほしいということである。これまでに会ったKYを思い返してほしい。理にかなっているが故に一層ウザく感じた人間はいないだろうか。そのような人間はほぼ間違いなく意図的に空気を読んでいない人間である。そんなことができる人間は頭のキレる、優秀な人間である。そのような人間の言うことを聞くのは、一時的には不快で苦痛かもしれない。しかし、最終的にはよりよい結果を導くだろう。そんな人間を排除しようとしないのが、実は賢く生きる近道かもしれない。
とはいえ、ただのKY耳を傾けすぎては、効率は落ち、ストレスがたまりただただ大変である。有能なKYを見極める技術が賢く生きるには必要かもしれない。