変人達の考え事

変人(複数)が各々考えたことを書いています。

我々は絶え間なく表現を消費し続ける。

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 インターネットの普及により、我々は大量のコンテンツ、即ち他者の表現を受信できるようになった。たとえ電車の中だって、容易に表現を受信できる。このことが一体どのような影響を、我々の生活に与えているのか。今回はそれを考える。

 大量の表現を受信して。

 さて、インターネットの普及により、自分が求めているコンテンツを受信するのが極めて容易になった。それは、おいしい食べ物、流行っている服、お笑い、たわいのないこと、なんでもあるだろう。それを受信した我々は何をしているのか。

 多くの場合、その表現を受け取り、それを自分の中を通すだけ。つまり、その表現を自分で深く考え直したり、感想を自分の言葉で表すことが、かつての表現の受信に比べて格段に減っているように感じるのだ。なぜならば、そのようなことをしなくとも、まだまだ他にも表現はいくらでもあるからである。加えて、自分で表現し直していては、他者の表現を受信する時間が足りなくなってしまう。

 このような、我々は受信した表現を、自分で再発信しない、表現の受け取り方は、表現を消費しているといえるのではなかろうか。

表現を消費する癖。

 表現をここまで極端に消費するようになったのは、確実にインターネット、特にスマートフォンが普及するようになってからだと私は考える。先にも述べたが、我々は自分の望む表現をいくらでも受信できるのだ。それも多くの場合新たに代金を支払うことなく。これはこの時代に特異な点であろう。

 少し前ならば、もちろんテレビや新聞、本などの表現を、例えば電車の中で多くの人間が受信していた。ただ、自分が欲しい表現は、そこまでたくさん受信できるわけではなく、すべての時間を受信に用いていては、表現が枯渇してしまう。その位のバランスであったはずなのだ。結果として、多くの人は受信した表現を、自分の中でかみ砕き、再発信していた。言い方を変えればその位の余裕があったのだ。

 それが「今」というインターネット時代ではどうだろうか。電車の中では皆がそろってスマートフォンに目を向け、延々と表現を消費し続ける。暇があればスマートフォンでニュースやSNSを見る。それでも表現は消費し尽せない。そして、ますます表現を受信・消費する時間が延びる。再発信する余裕がないのだ。

表現の変質。

 多くの人間が一方的に表現を消費する癖を身に着け、再発信をしなくなる。はじめのうちは「しなくなる」、で済むのかもしれない。しかしながら、使わない能力は退化するのが自然なもので、気づくと再発信「できない」状態になってしまう。そうして世界に発信される表現も拙いものになっていく。

 加えて、受信する側が好む表現も変わっていく。再発信を前提とした趣向が、消費することだけを考慮した趣向に変化する。それ即ち考えなくてよい、単純な表現が好まれるようになるということだ。勿論、発信されるのはより多くの人間に好まれる表現であるから、世界に放たれる表現はどんどん薄っぺらくなっていく。

  更に、我々が発信する表現は、減少している上に、その情報量が減少している。かつては対面で伝えていた表現が、文字だけによる表現になっている。その変化によって大量の情報が失われている。声の大きさ、抑揚、間の取り方、表情、空気感、など、決して文字では表しえない、大量の情報がである。結果として、物理的な距離とは無関係に、相手が遠い。そして、発信される情報も遠い相手に伝える程度のものとなり、親密な表現が失われる。

 そんな世界はつまらない。

まとめ的な何か。

 このように、インターネットの登場により、表現は変質した。それが、もしかすると進化し続ける人類が選択する、より優れた表現なのかもしれない。でも私はそれは詰まらないと思う。だからこのように、自分でも整理し尽せていない考えを表現し、データの海に発信する。今は文字だけではあるが、他の情報を乗せていつか表現してみせる。より面白い世界に生きたくて。

 

前回の「今」という時代を生きるはこちら。