変人達の考え事

変人(複数)が各々考えたことを書いています。

続・ギリシャヨーグルトを作るというのは料理であるか。

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この記事は続編です。前編はこちらからどうぞ。

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何が大切かはどうでもいいのではないか。

 昨日作ったギリシャヨーグルトは、いい感じに水気が切れて、もちもちしたチーズに近いものとなり、成功だったと思われる。また、それをトーストにすると、スライスチーズを乗せるのとはまた異なる甘さや酸味が感じられて美味だった。ワンパック分一日で食べてしまったので、また近いうちにつくろうと思った。

  それはさておき、昨日は一つの者に対して様々な認識を人は持っているというのが大切である、とかいうよくわからない結論らしきものを私は出していた。しかし、一晩経ってみると、ギリシャヨーグルトを作るのは料理か、というのはもちろん未だにどうでもよいのだが、認識云々もどうでもよく感じてきた。確かに、認識はおそらく人によって違うから、世界から争いや勘違いは消えないし、だから生きていて面白かったり辛かったりするというのは認める。でもそれは大切でもなんでもないように思い始めたのだ。

 そもそも何かが大切であるという考え方自体がどこか無駄な、空虚なものに思えてきたのだ。

 

教科書に蛍光ペンで線を引くが如く。

 ある事柄や考え方が大切である、というのがどのようなものなのか私はわからなくなってきたのだ。例えばそれはテストで問われる確率が高い、であるとか、そのことによって大きく利益を得たり、損失を被らない、みたいなことなのかもしれない。でも、この人生で大切なこととは何なのだろうか。

 教科書に蛍光ペンで線を引いて大切なところを目立たせる。やったことのある人は多いだろうが、それとはつまり大切でない部分を目に入りづらくして、最小限の労力で試験を乗り切ろうとしているだけである。実際には、私の考えでは、入試という段階においても少々程度の高い問題を解いていれば、教科書は隅から隅まで、比重に差はあれど大切だと思う。つまり、蛍光ペンで線を引くというのは、比重は軽いが大切なことを後回しにしているにすぎないのである。

 人生においてもこれは同じではなかろうか。

大切なことを求める程に薄くなる。

 結局のところ、自分が生きていく上で何かが大切である、と思うことは、他のことを相対的には軽んずることである。だから、書店に並んでいるような自己啓発本みたいなものを(私は読んだことがないけれど)手あたり次第に読み漁り、人生はこれさえすれば上手くいく、みたいなことはないのだと思う。多分そうすると、その他の人として失ってはいけないものまで見えなくなってしまう。

 人生においても大切でないことなどない。そう私は考える。

 ※ただしその比重は当然偏りがある

 だから何かを大切だなんて決めつけすぎるのはよくない気もした。というのが昨日の自分の考えに対する、一日経った自分なりの考えである。

 

蛇足

 ただ、実際問題この大切さの比重を、意識してか無意識かは知らないが、わかっていて、要領よくやっている人が多いのは間違いないとは思う。だから、全部同じくらい大切だー、と決めつけるのはそりゃあよくないとも思った。

 加えて、もしかすると大切さの軽重を見抜いている人なんて全くいなくって、時の流れに乗れた人と乗れなかった人がいるだけかもしれない。ただ、そんなことはわからない。だから、なんだろう。思考停止まではいかなくとも考えすぎるのも阿呆らしい気がしてきた。

 そう考えるとアリストテレスの唱えた中庸というのはしっくりくるよう思われ始めてきた。多分正解を考えることが間違っている。